ムーミンの生みの親として知られるトーベ・ヤンソン。近年は、その“生き方”や芸術家としての側面に光を当てた映画や書籍が注目され、表現者としての彼女にあらためて関心が集まっています。
現在ヘルシンキ市立美術館(HAM)で開催中の展覧会『Paradise』は、彼女が戦後のフィンランドで手がけた公共壁画に焦点を当て、それらを一堂に紹介する初の試みとなっています。
病院、学校、市庁舎──人々の日常に寄り添うために描かれた色彩豊かな壁画たち。
その背景には、アーティストとしてのトーベのまなざしと、揺るぎない信念が息づいています。
戦後フィンランドに希望を描いた、トーベのもうひとつの表現世界
Moomin Characters Collection
展覧会の中心となるのは、1940〜1950年代にかけてトーベが病院や学校、保育園などに描いた大規模な壁画の世界。
戦後の混乱から立ち上がろうとしていたフィンランドで、トーベの作品は人々に明るさと希望を届けてきました。
©Tove Jansson Estate
彼女の壁画には、幻想的な動植物や、ムーミンの原型のような不思議な生きものたちも登場します。
白馬に乗った少女や、手のひらで黒猫を抱く女の子──物語を感じさせるような構図と、カラフルでやわらかな色彩が、どこか懐かしくも新鮮です。
公共空間に描かれた壁画は、傷ついた心にそっと寄り添う“アートの処方箋”のようでもありました。
スケッチから完成作品まで “創作のプロセス”も公開
©Moomin Characters Oy Ltd
会場では、アトリエで発見されたという貴重な木炭スケッチも展示。
巨大な壁画を制作する過程を、モノクロの下絵から彩色された完成イメージへと投影で見せる演出もあり、トーベが作品に込めた想いや工程の丁寧さが伝わってきます。
©Moomin Characters Oy Ltd
また、アウロラ病院(Aurora Hospital)のために制作された壁画のセクションも見どころの一つ。
1955年、トーベは小児病棟の階段の壁面に描く壁画制作のコンペに参加し、見事採用されました。そこに描かれていたのは、病気の子どもたちに少しでも笑顔を届けたいという、彼女のあたたかな願いに満ちた世界。
展覧会では、その壁画のために描かれた貴重なスケッチや習作が階段状の空間に沿って展示され、まるで実際の病院の階段を一緒に登っているような臨場感を味わえます。
展示空間の構成そのものが、子どもたちがワクワクしながら階段を上っていく情景と重なるように作られていて、まるで物語の中に入り込んだような感覚になります。
©Moomin Characters Oy Ltd
モチーフとして描かれているのは、おなじみのムーミン一家だけでなく、人間の子どもたちやお姫さま、動物など──どれも、子どもたちにとって“身近で安心できる存在”たち。
トーベは病院側から「病気や痛みを思わせないものを」とリクエストを受け、子どもたちの想像の世界を広げる“夢の共演”を生み出しました。
絵の中では、みんなが上の階を目指して駆け上がっていきます。
一番上に描かれているのは、静かにたたずむ人間の男の子と女の子。──これは、かつて子どもだったすべての人の姿であり、物語の終着点のようにも見えます。
このセクションだけでも、展覧会全体のテーマ“Paradise”が、決して抽象的な夢ではなく、一人ひとりに寄り添う優しい現実として存在していたことを感じさせてくれます。
作品に忍ばせた、トーベの“生き方”
©Tove Jansson Estate
本展のもうひとつの見どころは、トーベの個人的なストーリーや社会への姿勢が作品ににじんでいる点です。
たとえば、ヘルシンキ市庁舎の食堂のために制作された横幅6mもの壁画には、テーブルに座るトーベ自身と、彼女の最初の女性の恋人ヴィヴィカ・バンドレルの姿が、密かに描かれています。
当時のフィンランドでは、同性愛は1971年まで違法とされ、トーベはその価値観と闘いながらも自由に、自分らしく生き抜いたアーティストでした。その姿勢は、作品に描かれたモチーフや表情、構図にも色濃く現れています。
©Tove Jansson Estate/©Moomin Characters Oy Ltd
見つけたらちょっと嬉しい、"隠れムーミン"たち
実はこの展覧会、じっくり見ていると“ムーミン”たちがひょっこりと顔をのぞかせていることに気づきます。
トーベが手がけた壁画やスケッチの片隅に、さりげなくムーミントロールやその仲間たちが潜んでいるのです。
病院や市庁舎といった真面目な場のために描かれた作品の中にも、まるで「ここにいるよ」とウィンクするように描かれたムーミンたち。
それはトーベの遊び心であり、「自分の表現はどこにいても自由でいいんだよ」というメッセージのようにも感じられます。
ムーミンは“子ども向けのキャラクター”という枠を超え、彼女の創作そのものであり、人生観の延長でもありました。
そっと忍ばせた存在に気づいたとき、思わず微笑んでしまう──それもまた、“Paradise”の一部なのかもしれません。
ムーミン以前の作品から見える、“画家”としての原点
©Tove Jansson Estate
展覧会では、ムーミン以前の作品も多数展示されています。若き日の自画像、家族を描いた肖像画、静物画など、ひとりの画家としての葛藤や成長がにじみ出た作品群です。
芸術一家で育ったトーベは、父から「ムーミンは芸術ではない」と言われたことに悩みながらも、独立心と表現への情熱で道を切り拓いてきました。その生き方もまた、彼女の作品世界の一部なのだと実感させられます。
展覧会の余韻を持ち帰れる、HAMショップも必見!
展示を見終えた後は、併設のHAMショップにもぜひ立ち寄ってみてください。
明るく洗練された店内には、本展覧会『Paradise』の図録をはじめ、トーベ・ヤンソンにまつわる書籍やグッズがずらりと並んでいます。
図録は、展示されている壁画やスケッチの魅力をじっくり振り返るのにぴったり。
ほかにも、ムーミンに関するアイテムが幅広く揃っており、アートファンにもムーミンファンにも嬉しいラインアップ。木彫りのムーミンや、限定ポストカード、フィンランド語の書籍なども見逃せません。
旅の思い出に、そして大切な人へのお土産にもおすすめのスポットです。
実際に足を運んだからこそ伝えたい“空気感”
展示室には、どこか神聖さを感じさせる“静けさ”が漂っていました。
それは冷たさではなく、作品と真摯に向き合う人々の集中と敬意がつくり出す、あたたかな空気。
編集部が訪れたのは平日の午後。観光客よりも地元の人が多く、ひとりで訪れる大人、親子連れ、学生グループなど、年齢も背景もさまざま。
けれど皆、不思議と同じリズムで展示を巡り、時折立ち止まっては、スケッチの細部や色彩のニュアンスにじっと目を凝らしていました。
木炭の線のかすれや、壁画のスケール感。
その一つひとつに宿るトーベの眼差しは、写真や図録では伝えきれない“空気”をまとっていて、まるで時間がゆっくりと流れているかのようでした。
トーベ・ヤンソンというアーティストが、ムーミンの世界を越えて、今もフィンランドの人々の心に深く息づいていること──
この展覧会を訪れて、あらためてその存在の大きさに触れることができました。
『Paradise』展は、ムーミンファンはもちろん、アートや人生の奥行きを味わいたいすべての人に開かれたトーベの“楽園”。
この春、ヘルシンキを旅するなら、どうかお見逃しなく。会期は4月6日(日)までです。
©Moomin Characters ™
特別展『Paradise』開催情報
■会場:ヘルシンキ市立美術館(HAM)
■会期:2024年10月25日(金)〜2025年4月6日(日)
■開館時間:火〜日曜 11:30〜19:00
■休館日:月曜
■入場料:16ユーロ(割引あり)
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